コラム7.中将棋

作成2000.4.9.更新2005.5.10.

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 中将棋のもととなったのは、他でもなく大将棋の影響と考えられ、あまりに駒数の増加と駒の種類が複雑化したために、その簡略化と少将棋にはない成り駒の特殊ルールを活用するために考案されたと考えられます。

 また、前節までにも少し解説しましたが、当時の日本社会において識字率はかなり低く、公家などの貴族と武家社会の特に一部の有力な身分に限定されていたので、少将棋が一般武士と一部庶民にまで広がりを見せたのに対し、大将棋はその複雑なルールゆえ貴族階級に限定されていたと言います。

 その公家さんの貴族階級ですら、対局に長時間を要する大将棋を敬遠する動きが高まったのを受けて、しかし、少将棋はあまりに単純すぎて遊びがいが無いということもあって誕生したのが中将棋です。

 <中将棋の解説・ルール紹介はこちら

 

 文献での最初の登場は、公家の中原康富が記した『康富記』という日記で、文安元年(1444)閏6月24日に中将棋を対局したと記されています。 また、康富周辺の公家の中にもかなり中将棋を指す人がいたようです。

 そして、16世紀に入ると公家の間で一段と流行することになります。くわえて、その頃から将棋指し、つまり将棋の自称名人が出てくるようになり、大・少・中将棋のいずれも習熟していた人まで出てくるようになったそうです。そういう人たちは主に将棋好きな大名に呼ばれて将棋指南を行ったり、また公家の間にも対戦相手として将棋を指しに行きました。

  対局自体が単純すぎた少将棋と、逆に複雑すぎて時間もかかる大将棋とのちょうど中間に位置することとなった中将棋は公家社会で重用され、これ以後、現代将棋が主流となった戦国時代・そして江戸時代となっても公家社会を中心に京阪神地方で遊ばれる事となります。

 昭和初期まで、京阪神を中心として細々と遊ばれていたのはこれが大きな理由であると考えてよいでしょう。 ですが、第二次世界大戦をはさんで以後はぷっつりと遊ばれなくなったようです。

  で、中将棋はその時代性(成立期から一貫していた)の長さから、ルールがその時代や地域によって変化していることが判明してきました。中将棋連盟としてはなるべく統一ルールを築きながらも、ローカルルールにも光を当てようと思います。発見しだい、ルール紹介にて補足を加えていきます。