作成2000.12.19.更新2005.5.10.
世界中に広まることとなった『将棋』ゲームですが、日本・中国・朝鮮をメインとする将棋だけは他の地域とは異なり、駒が形象化されたものではなく、文字〔漢字〕によってその役割を定めると言う特徴があります。これはさすが世界4大文明のひとつ、黄河文明を祖とする地域ならではの特徴と言えますし、主にヨーロッパのチェス文化圏の文字(主にアルファベット)が表音文字であるのに対して、漢字は表意文字であり、一字一字に字義があるからこそ出来たのだと思います。
しかし、その文字による将棋駒の中でも、日本だけは大陸の将棋とは大きく様相が異なります。
中国と朝鮮の将棋は、一部の駒の名が異なるだけで、あとはほぼ同じルールのようですが、日本は駒の名前も機能も大きく異なり、大陸からもたらされた将棋だとして共通するのは文字を使っていることぐらいです。
あまり世界中の将棋を知っているわけではないのですが、日本の将棋のルール面はどちらかと言うと南方諸国の将棋に近いところが多いそうで、ここにはアジア最東端の地ならではの、2つのルートの到達点・合流点ともいえる、創作日本将棋と捉えるのが妥当なところかもしれません。
さて、本題の駒の名称に移りますが、王将と玉将、そして金・銀・(銅・鉄…)桂・香という名前は、ほかの国には見られない日本ならではの名前ですが、どうしてこういうネーミングがなされたのでしょうか? 以上の文字にはあまり役割と言うような字義はなく、将・馬・車などの役割を意味する漢字の飾り程度でしかありません。
先のコラムにも触れましたが、日本で今のところ最古の駒とされている発見物は、1052年ごろと推定されている興福寺駒です。この駒はすでに現在の日本将棋の形態となっており、きっとそれ以前には海外から伝来したばかりの、日本将棋成立以前の形態をした将棋があっただろうと思われます。その伝来期は全く判明していないのですが、
仏教伝来後であることはほぼ確かだろうと思われます。そして、漢字というものを普段から利用するようになったのは近現代に入ってからのことで、それ以前の識字率はごく少数です。
平安期の将棋がすでに文字駒であるということは、日本将棋を創作した人は、かなりの高貴な身分、あるいは学者・研究者であったに違いないだろうと言うところが妥当なとらえ方だと思われます。では、ここからは清水康二さんの学説をもとに紹介していきたいと思います。
日本将棋のボス、王将ですが、この王将のことを略して呼ぶとき、なぜか「おう」よりも「ぎょく」として呼ぶことが多いように感じます。
現代将棋では王将>玉将とされ、対局者間の段位や年齢など、敬意を表して目上の方に王将を、私は玉将で…という使い方が一般的ですが、「王」はキングそのもの、つまり軍団の将としての意味をもつのに対し、「玉」はなんで玉なのでしょうか?
はっきりとした由来はなく、単に昔から王と対にして点を加えたとする見方もあります。清水さんはこの「玉将」について、次の説を元に考えられました。
現在日本最古の駒は1058年ごろとされる興福寺の旧境内から発掘された駒です。その発掘が1992年のことで、それ以前は平安後期の可能性があるとされている兵庫県日高遺跡・山形県城輪遺跡の出土駒が知られていたそうです。どちらも歩兵のみで、どちらの遺跡も当時の国府とされています。なので、その将棋を楽しんでいた人は役人階級の人であっただろうと考えられています。一方、興福寺出土の駒はその出土場所から一目瞭然、坊さんたちが楽しんでいた、あるいは製作していただろうと考えられています。
さて、ここで日本史のお勉強。日本最初の遣隋使は?(ごそごそ…)小野妹子が607年に当時の中国・隋へ派遣されているのが記録されています(『隋書』によるとこれより先、600年にも倭国の使いが来たと記されています)。そのとき、妹子とともに多くの留学生が渡っています。留学生と言っても今のような単なる学生ではなく、当時は仏教を学ぶために大陸へ留学するのがほとんどです。そのなかで、中国の文化や政治制度などにも広く関心を向け、たくさんの知識を得て日本へ戻り、帰国後は僧侶であるとともに政府の高級役人として学者扱いされることになります。後に隋から唐に変わってからも遣唐使として894年、菅原道真の建議によって廃止されるまで続きました。
ちなみに、最澄・空海らの平安仏教が9世紀のはじめ頃、法然が12世紀のはじめ頃に浄土宗を開いて鎌倉仏教の走りとなるまでの間、およそ300年ですね。
さて本題に戻って…日本将棋の駒の名前は中国・朝鮮の将棋と大きく異なり、全て漢字1文字の大陸駒に対して、日本は駒の本来的な性格を示すとされる「将・馬・車」の上に、「玉・金・銀・桂・香」の文字が飾られています。一般的にこれは五宝を示すと言われています。その五宝というのは、佛教に出てくる「五宝・七宝」というものを指しています。具体的には、釈迦の仏舎利(遺骨といわれています〔でもこの時点で釈迦没後1000年を超えているので、わたし的には本物かどうか怪しいです〕)を、寺院建築の際に五重塔みたいなものの心礎に安置し、丁重に祭ることがあったみたいです。その仏舎利を奉納するときの入れ物として、前述の五宝をもとに、中心から金・銀・銅・鉄…と順に大きな入れ物に入れていき、大切に奉納するのが当時のやり方だったそうです。
結構中国でも当時このような仏舎利納入の形式を取っていたそうです。仏教経典の五宝の記述に基づいているとされます(経典には、釈迦入滅の際に棺として金・銀・銅・鉄の四重棺が用いられたと書かれているそうです)。
つまり、この五宝説というのは、その金・銀・銅・鉄から当時の僧侶が拝借したのではないだろうかとする説です。なお、銅・鉄はどこにいってん? と突っ込みを入れたあなた、平安大将棋を忘れていませんか? 平安大将棋では金・銀・銅・鉄すべてがそれぞれ「将」の飾り文字に使われています。
これも清水さんの論文によりますと、法隆寺の五重塔心礎に祭られた仏舎利容器には、瑠璃製舎利瓶(ガラスですね)・金製容器・銀製容器・銅製の容器が二重、となっていて、そのうちの外側三層の間に、香木や珠玉が詰められていたそうです。また、佛教の儀式にお香は欠かせません。そのことから、金銀の外側に配置する形で、桂馬・香車が名づけられたのではと考えられています。
興福寺から発掘された駒17点のうち、玉将は3点も含まれています。が、王はありませんでした。もしかすると当時の将棋は全て玉将だったのではないかという推論のもと、その「玉」の由来を検討しますと、前述の仏舎利容器の一番内側にも用いられた、瑠璃(ガラス)を指しているのでは? とも考えられる一方、釈迦そのものではないかとされる考え方もあります。中国の古典に米粒のことを「玉粒」と書かれていること、「舎利」は現代でもすし屋さんなどの業界用語として白米、つまり「シャリ」の隠語としてつかわれていること、その由来はもともと僧侶の間で仏舎利と米粒との形が似ていることから隠語として名づけられたと言われていること、それらの要素から「玉」の漢字に釈迦を結び付けたのではと考えられています。
…当時の日本で文字め漢字が使えるというのは、本当に限られた階層の人たちであったということと、当時の文化形成に留学僧・僧侶階層の豊かな知識は大きな役割を果たしています。日本史の受験勉強をしている方なら、奈良・平安期に登場する僧侶は全て学者であると見なさい。と言われたことはありませんか? 現代のような月命日と葬式・法事にお経となえてお金をふんだくり取るだけの坊さんたちとは全くその性質が異なります。民間にまで佛教がひろまったのは法然以降ですから、この時期の僧侶はぜんぜんイメージが異なるのです。
その僧侶が将棋の駒のようないわゆる遊戯具の命名にも一役買ったと考えるのは、とても自然なことなのですね。逆に僧侶以外で漢字を使えそうなのは貴族くらいですし、僧侶以外で将棋駒を命名出来るのも貴族に限られてしまうと言うことです。
それに、日本は昔から隠語大好きな人種です(笑)。そのなかでも佛教世界からの隠語と言うのはとても多いです。意外な慣用句が仏教用語や仏教説話に由来するものも多いです。
きっといつの時代も坊さんたちは暇を見つけてはそんな言葉遊びをしていたのかもしれませんね。逆に、本来の名前をそのまま遊びに使ってしまうと怒られてしまいかねないから、隠語をいっぱい作ったとも考えられます。